第一章:First Contact/1965.3.25

−手塚治虫の編集者テスト−

初めて虫プロ出版部に通勤し、手塚社長にお会いした途端、猛烈な質問攻撃にさらされました。


 入社第一目の出で立ちは、中退したばかりのS大学の制服だった。1月に成人式を終えたばかりだから、新しい背広も作ってあったが、それも何やら大仰だったし、何より「3月25日から出社してください」という電話を受けた際、「泊りも覚悟して」と、言われていたので、着慣れていてフォーマルな感じもある紺の背広上下がいいだろう。と思ったのだった。
 荷物は、大学新聞時代に使っていたA4サイズの紙箱一つ。中に鉛筆、消しゴム、鋏、糊、赤青の色鉛筆などの編集用具と、行きの電車で読むために昨日買った雑誌『漫画読本』を入れた。

 富士見台駅前の小さな商店街を抜け、畑と空き地と新興住宅の間の道を10分ほど歩くと手塚邸の門があり、そのブロック塀に沿って折れると、二度の入社試験でおなじみになった虫プロの入口だ。(実は出版部の前に資料部の社員募集を新聞広告で見て応募している。「資料部から将来出版部に移れるか」と面接の穴見常務に聞くと、「資料のプロが欲しいので移れない」「じゃ応募を取り消します」と言うと「出版部が募集する時は君に連絡するように出版部長に伝えておく」ということで、年が明けてから出版部から試験実施の連絡を受けたのだった)
 用務員室か警備員室のような小部屋の隣に社員用の下駄箱がずらりと並んでいる。面接試験の際は、ここが順番待ちの部屋だった。空いている箱に靴を入れ、持って来たスリッパに履き替え、向いにある出版部の部屋に入ると、何やら異様な事件の最中だった。(2007.3.27記)

 警備員らしい年輩のじいさんが「アニメの連中の悪質ないたずらですね。一応捜索(後で元警察官と聞いた)はしますが、犯人をみつけることは、たぶんできないでしょう」と言っている。奥を見ると、一面ゴミが散乱していて、誰かが黙々と掃除をしていた。僕が入って来たのにも気付かず、顔を真っ赤にして警備員相手に一人怒ってまくしたてている人がいた。出版部はアニメの連中から嫌われているのか?なんかとんでもない所に来たのかな?と思いながら入口に立っていると、「じゃ、私はこれで」と警備員が帰る段になって、怒っていた人物は、やっと入口に立っている僕に気が付いた。
「今日からお世話になります。──です」と挨拶すると、「ああ、編集長の山崎だ。君には手塚先生を担当してもらう。後で先生に紹介するから」と言い、机を指示された。そして「野川君」と、さっきまで屈んで掃除をしていた人を呼んだ。
「野川春子君だ。ここでは一番古い、虫プロの生き字引だ。虫プロでわからないことがあったら、なんでも聞くといい」「よろしくお願いします」最初少年に見えたが、ボーイッシュな女性だった。採用通知と連絡事項を電話で知らせてくれたのは、どうやらこの人らしい。
「──君にタイムカードの押し方を教えてやってくれ」野川さんは黙って先に立って部屋を出る。後に付いていくと、出版部の部屋と下駄箱の間の渡り廊下の外の壁にタイムカードが並んでいた。軒が張り出して風雨は避けられるものの、吹きっさらしで、床部分のコンクリートは、隣接する木造家屋(後にご両親の住い部分とわかる)から隣の鉄筋コンクリート三階建ての手塚邸に延々続いている。
「ここが出版部で、あなたのカードはこれ。手塚先生のところに泊まった時は、寝る前にこれを押すこと。そして起きたら、出勤時間に合わせてまた押すこと。わかった?」徹夜だったらどうするんだろうと思ったが、質問を許さない雰囲気だったので、黙ってうなずいてタイムカードを押した。まさにこの瞬間から、僕の初めての社会人生活が始まった。(2007.3.28記)

 やがてソフィア・ローレンを思わせる肉感的な女性が出社してきた。「岸本節子さん。こないだまでは桜井さんだったが、社内結婚して岸本さん(ご主人の岸本吉功氏は、後にガンダムで一世を風靡する(株)サンライズの初代社長になる)だ」「よろしくっ」とやけに明るい。「ところでおヌシ何才?」「二十歳です」と答えると、「やだ、私と同い年じゃない。おお、やだ」と、何が嫌なのか大げさに肩をすくめた。
「もう一人箭内さん、旧姓片桐さんという美人もいるが、やはり社内結婚して、今は新婚旅行中だ。年も同じ二十歳だ」なんか、がっかりしてきた。
「おはよう」少年のような小柄な男性が登場して、「石井です。よろしく」と軽快に名乗った。僕より年下にも見えるが、すぐ編集長と始まった仕事の打ち合わせの様子など聞いていると、どうも僕よりずっと上のようだ。見た目とのギャップが大きすぎて、実年令を聞くことができなかった。
「手塚先生に付いている校条(めんじょう)君の連絡だと、昼過ぎ頃がいいだろうということだから、ちょっとよその部署にも挨拶に行こう」と、山崎編集長に連れられて総務部に挨拶に行ったり、(なぜかアニメ現場には行かなかった)「ゴリラのすべて」というページの校正をやらされたくらいで、以後午前中はほとんど遊んで過ごした。校正は、編集部全員が一度は全ページに目を通す決まりになっていて、前に見たものの見落としを見つけると、10円もらえるのだと言う。(実際はそんなことは無かったが)
「私が見た後だから、見落としがあるわけないけど」と、母上が講談社の校正ウーマンという節子さんが渡してくれた2色×1色オフセット印刷の口絵のゲラをじっくり見ると、小見出しのゴリラが、一つだけ間違っているのを発見した。「ゴラリになってますけど」と言うと、「あさとさんの打ち合わせにスタジオに行ってきまあす」と、出て行ってしまった。
「後はすぐやる仕事は無いから、『鉄腕アトムクラブ』のバックナンバーを読んでおくように」と言われたが、創刊からこれまで8号のバックナンバーは、二度の入社試験の待合室で全部読んでしまっていた。
「このゲラの余ってるのいただいていいですか?」と聞くとうなずいたので、ゴリラの口絵と、持って来た『漫画読本』名物のヌード口絵のコラージュを作って遊び始めた。
 まずゴリラの本文を全てゴラリに替え、カラーヌードのタイトルを「ジャングルの強者/ゴラリのすべて」にした。後は感覚だけの世界だ。最後に、渡されたバックナンバーの中に切り抜きだらけの一冊を見つけ、その中に「写真/手塚北風」と大きくクレジットされている文字を見つけて、それをタイトルの直下に貼り付けた。まあこれで完成かな?
 出来上がったコラージュを両手に持って伸ばし、全体のバランスを見ていると、「──くん、何をやってるんだ」と、編集長が声をかけてきた。そこで、黙ったままコラージュを編集長のところに持って行く。
 さて、怒られるのかどうか。と、首をすくめながら見ていると、コラージュを見ている編集長の顔が、朝方警備員の前で怒っていた時そのまま真っ赤だ。こりゃヤバい。と思ってよく見ると、両肩が小刻みにぶるぶると震えている。笑ってる。やった。と、思ってみていると、編集長はひとしきり無言で爆笑した後、黙ってコラージュを真ん前の石井さんに手渡した。石井さんは、自分の仕事の手を休めて、それを一瞥した後、「こんなもんのどこがおかしいの?」といった怪訝な面持ちで、コラージュを編集長に返す。コラージュは、そのまま編集長のゴミ箱に捨てられた。
 昼になった。「さて合戦前に飯でも食いに行くか。──くん、弁当持って来た?無い?じゃ、まだこのへんよく知らないだろう。いっしょに行こう。石井ちゃんもたまにはいっしょにどうだい」という編集長に連れられて、虫プロを出た。
 どんなところに連れて行ってくれるのかと思ったら、虫プロのすぐ近くにある、かどやという大衆食堂だった。「ここのラーメンがうまいんだよ」と言うので、三人ともラーメンを頼んだ。
 せっかくの機会だからと、朝から聞きたかったことを尋ねる。
「僕の机ですけど、前にいた人はどんな人だったんですか?」与えられた机の中はからっぽで、僕の「虫プロ出版部 ────」という新しい名刺ケースしか入っていなかったけれど、そこで働いていた人が確かにいた匂いを感じていた。
「ああ、D君か。あれには参ったなぁ。やはり社内結婚した女の子だったけどね、亭主と富士見台のそこら中に借金した挙句に、夜逃げしちゃったんだよ」
「出版部にまで本屋がツケを取りにきたりして、あの頃は大変だったですよね」と、相槌を打つ石井さん。うーむ。こりゃ本当に大変なところに来てしまったのかなあ。と、思わざるを得なかった。
 気が付くと、二人の会話は、山崎編集長の自宅の引っ越しの話になっていた。「校条さんも手伝うと言ってるし、運送屋のトラックさえ頼んでもらえれば、後は我々がやるから大丈夫ですよ」
「俺も友達に声をかけてはあるんだけど、──君も手伝ってくれるよね?」
「え、ええ。仕事に差し障りなければなんでもやらせていただきますが」
「日曜だから仕事なんかないよ。じゃ、頼むよ」なにがなんだかわからないうちに、引っ越しの手伝いをさせられることになってしまった。
「じゃ、そろそろ敵陣に乗り込むとするか」山崎さんが自分のラーメン代60円をカウンターに置いて立ち上がった。僕らも10円玉を6枚ずつ置いて立ち上がったが、今さらながら手塚先生に会ったり、徹夜につきあう時の心構えなど、何も聞いていなかったことに気が付いた。
「手塚先生にお会いするにあたって、何か気を付けておいたほうがいいことってないですか?」
「時々わざといじわるしたり、編集者をテストしたりするけど、そんなに悪い人じゃないから気にしないことだよ」と、石井さん。
「それより、手塚先生は我々の社長だ。そのことを忘れるな。本当の敵は、他社の編集者だ。小学館だろうと講談社だろうと、どんな大会社にも負けない気概を持つこと。これさえ忘れなければいい。じゃ、行くか」
 かどやを出た山崎編集長と僕は、石井さんと別れ、手塚邸の大きな門から「敵陣」に乗り込んで行った。(2007.3.29記)

 山崎さんは玄関でなく芝生の庭に回り込んで、全面サッシのガラス障子をスルスルと開けた。目の前に5,6人の編集者が、ソファーに腰掛けている。左手には机が三列に並び、十人ほどのアシスタントが黙々と仕事をしていた。靴を三和土に脱いで部屋に入ると、編集者の一人に(上?)と無言で指差して確かめ、大きな声でアシスタントのいる天井の上の二階に声をかけた。
「先生。今日から出版部に入った──君を連れて来ました」
 手塚治虫が螺旋階段の上に姿を現すと、山崎氏は続けて、
「──君は劇画にも詳しいんです」と、言った。
 手塚治虫が、ガラス戸のそばに立ちつくしている僕を見て、二階から声をかけた。
「さいとうたかををどう思いますか?」 「絵がうまいので、好きです」
「辰巳ヨシヒロは?」 「物語とキャラクターが好きです」
「桜井昌一は?」 「好きではありません」
「山森ススム」 「嫌いです」
「佐藤まさあき」 「大っ嫌いです」
「平田弘史」 「大好きです」
「影丸譲也」 「好きです」
 いつの間にか、聞かれた名前に好きか嫌いかしか言えなくなっていた。それくらい貸本漫画家の名前が矢継ぎ早に出て来る。
 手塚治虫は、ゆっくりと螺旋階段を降り始めた。
「永島慎二」 「大好きです」
「もり・まさき」 「大好きです」
「ダンさんともりちゃんは、今虫プロに居るんだよ」
「知ってます。それも、どうしても虫プロに入りたかった理由の一つです」
 いつか挙げられる名前は50人をゆうに越えていた。
「今村洋子」「好きです」「古賀新一」「嫌いです」「浜慎二」「好きです」
 肩が触れるほど手塚治虫が近づいて来て言った。
「ああ、だいたいあなたの好みがわかりました。あなたは残酷モノが好きなんですね」
「え?」
「あなたが好きだと言った平田弘史、白土三平、楳図かずお、この人たちはみんな残酷モノの作者じゃありませんか」
「違います。絵のうまいオリジナリティーのある人が好きなんです。それに、僕が一番好きなのは手塚先生ですが、先生は残酷モノの作者じゃありません」
 そう言うと、手塚治虫はワッハッハと吹き抜けの天井を向いて大笑いし、
「ま、これからよろしくお願いします」と言って背を向け、再び螺旋階段を昇って行った。

 山崎編集長は、各社の手塚番には目もくれず、チーフ格アシスタントの大野豊さんと井上智さんに僕を紹介し、
「さ、帰ろう」と僕を促した。
 手塚番の人たちに黙礼して外に出ようとした僕らの上に、ガサッと音がして、紐にぶら下がった白い紙が落ちて来た。
「それ、さとるさんに」
 上から手塚先生の張りのある声が響いた。(2007.3.30記)

 出版部に戻ると、大日本印刷の斉藤さんという営業マンが、午後イチで活版の校正用のゲラを届けに来ていた。小柄できびきびした感じの斉藤さんに紹介され、生まれて初めて名刺交換というものをした。(それまで紹介されたのは同じ社内の人間ばかりだった。手塚番の編集者たちはピリピリして殺気立っていたし、だいたい誰にも紹介されなかった)
「手塚の原稿は、この──君が明日までに上げるから、もうちょっと待ってください」
「大変ですね。よろしく」と、斉藤さんが帰ると、届いたゲラを大日本印刷の付箋が付いた袋から出して見ていた編集長が、
「──君ちょっと」と、呼ぶ。
「これを校正して、こことここに、小見出しを入れてくれ」と、SFショートショートのゲラと、平井和正氏の元原稿を手渡した。
 小説のゲラというものを初めて見たが、それは挿絵の入るべき位置が真っ白に空き、凸凹した空白に沿って行末や行始めが斜めに文字組された変なものだった。
 児童誌らしく、大きめなすべての漢字に、ルビがていねいに振られている。赤鉛筆片手に、ショートショートの文字校正をしながら、頭と中間に3行分ずつとってある空白に入れる小見出しを考える。
「小見出しの字数は、どれくらいがいいんですか?」と聞くと、
「書き文字で入れるから7,8字以内」という指示。なんと、短かすぎるじゃないか。

 高校、大学と学校新聞をやってきたから、小見出し作りの基本は知っている。要は、本文の中から、結論に添っていて、読者の気を惹くようなインパクトのある単語を選び、短文にまとめることだ。ただ、本文を勝手に要約して、本文に無い言葉を創作してはいけない。言葉に釣られて本文を読んだ読者が、本文と連動していない見出しに「騙された」と、感じてしまうからだ。しかし、7文字や8文字では、文章にするのは至難の技だ。しばらく頭を抱え込んでしまった。
 やがて、「消えたいん石」と「侵略する霧」という二つの小見出しを鉛筆で書き込んだゲラに、校正を終えた印に自分の名前を赤字でサインして編集長に戻すと、「いいだろう」と、一発でOKが出た。
「このページは、俺が担当してきたけれど、これからは──君の担当だ」
「はい」手塚治虫の原稿を待つだけが仕事でないことがわかり、なんとなくうれしかった。

 午後はずっと、その他の活版ページの校正を見て過ごした。夕方になり、手塚番の校条さんが、僕と交代するために出版部に帰って来た。肥満体で、象のように細い目が茫洋とした印象を与えるおじさんだ。山崎さんに現在の手塚治虫の状況をひそひそと報告していたが、どこか態度がおどおどしている。
「よしわかった。──君、校条君に案内してもらって、手塚邸に行ってくれ。今夜から交代だ」
「わかりました」
「校条君が何日も前から泊まり込んで、やっと取った順番だ。よその編集が何と言っても、順番を譲ってはならない。そして、今夜中に『ボクのまんが記』を上げること。わかったな」
「はい」
「それから…」と、メモ用紙に何か書いて差し出した。見ると電話番号だった。
「俺の自宅の電話だ。何かあったら電話しろ。ただ、俺だって家庭があるから、無闇に電話するな」
「はい」ポケットに入れると、靴を履き、校条さんの後に従って手塚邸に向った。
 今日25日という日が、毎月7日発売の月刊少年誌にとって、入稿できる最終〆切日であることも知らされないまま…。(2007.4.2記)

 校条さんは、山崎さんのように庭に面したガラス戸から入らず、玄関前も通り過ぎて、自家用車の車庫に面した勝手口のような扉を開け、三和土に靴を脱いで手塚邸の中に入った。後に続くと、そこは六畳ほどの畳敷きの和室だった。車庫に面して一間の窓があるだけの、薄暗い部屋だ。
「ここが、編集者の泊る部屋になっていて、蒲団はここ」と、作り付けの扉を開いて見せた。中に、蒲団カバーも何も無い、無機質な煎餅布団が重なっていた。
 上がり口の反対側のドアを開けると、そこは玄関の内側で、奥へ続く広い廊下の右手には二階に上がる重厚な階段があり、階段の下がトイレになっているのは、普通の住宅と同じだ。校条さんは玄関の土間とトイレの間の板の間を横切り、玄関の隣の扉を開けた。そこが、昼間来た広い仕事場だった。
 実は、ここから後がさっぱり覚えていない。たぶん、そこにいた編集者たちに僕を引き合わせ、「じゃ」と、僕を置いてすぐ帰ったのだと思う。そこに手塚番の編集者が、何人居たのかも記憶に無い。(たぶん、『少年』の白石さん、『少年ブック』の石井さん、『少年画報』の佐藤さんたちがいたのだろう)手塚先生は二階から降りて奥の机に陣取り、もう僕に声をかけることもなく、ただせっせと漫画を描いていた。(ように思う)

 暗くなると、若いアシスタントが、「お食事は何にします?」と、黙然とソファーにたむろしている編集者たちに聞きに来た。
「俺は杉のランチ」
「じゃ俺も」
「──さんは?」と、聞くので、
「あ、同じでいいです」何もわからないので、そう答える。
 出前が届くと、食事もソファーに座って、灰皿の乗ったテーブルでとる。先生が食事のために奥の扉から消え、アシスタントがそれぞれ仕事の手を休めて食事をとりはじめても、ほとんど誰もしゃべらない。
 雰囲気が一変したのは、夜になって先生が仕事を再開してからだ。玄関に続く扉を威勢良く開けて、年配の編集者が入って来た。
「どうも先生、ご無沙汰しています」と、声をかけるなり、ずかずかと手塚治虫の机に近付いて行く。
「ああ、阿久津さん、わざわざすみません」
 手塚ファンだから、漫画によく出てくるアークズ・ノブミッチの名前ぐらい知っている。先輩編集者に親近感を感じながら見ていると、二人でぼそぼそ話していた阿久津さんが、踵を返して近寄って来ると、僕の前で仁王立ちになって、言った。
「俺は『冒険王』の阿久津信道だ」よろしくと笑いかけようとして、次の言葉に表情が凍り付いた。
「お前か。訳のわからんこと言ってるっていう若造は。廊下へ出ろ」
 いきなり言われて、こっちこそ訳がわからなかったが、とにかく大先輩の命令だ。
「はい」と、言われるまま、後に続いて廊下に出た。仕事部屋の扉を後ろ手に閉めると同時に、胸ぐらを掴まれ、廊下の壁にドンと力ずくで押さえ付けられ、左右に揺すぶられた。
「いいか。てめえのところは社内原稿だ。社内原稿は社内原稿らしく、よそさまの邪魔をしないで、みんなが終るまで黙って待っているんだ。わかったか?わかったら、すぐ山崎に電話して、秋田の阿久津がこう言っていたと伝えろ」そこまで一口に言って、やっと背広から手を放した。
「わかりました」と言って、編集長に電話をするために出版部に戻ったが、実は、何がなんだかさっぱりわからなかった。まだ、「今夜中に原稿をいただかないと困る」とも、「次の順番はうちだそうですから、うちにかかってもらうまで、他社の原稿にはかからせません」というような過激な宣言をした覚えも無かった。(言わなきゃいけない事態になったら、言う覚悟だけはできていたが)
 出版部に戻り、山崎編集長の自宅に電話すると、待っていたかのようにすぐ本人が出た。
 これこれこう言うわけなので、いざという時、山崎編集長に言われたように順番を守って戦うべきか、それとも阿久津さんがおっしゃるように、社内原稿なんだから他社に譲るべきなのか、と、指示を求めると、
「阿久津さんが言うんじゃしょうがない。譲ってやれ」と、拍子抜けするほど簡単に答えた。
「わかりました」と答えて電話を切ったが、心の中で「なーんだ」とつぶやいた。だったら、最初からそう言えばいいじゃないか。

 手塚先生の仕事場に戻ると、もう阿久津さんはいなかった。
 山崎さんの指示が変ったことで、気持ちは非常に楽になった。とにかく、今日中に原稿を取る必要はなくなったわけだ。後は、どんなぐあいに他社の原稿が上がって行くのか、観察しているだけでいい。先生が描く気になったら、その時に原稿が上がるのだろう。それまで邪魔にならないように、ただ手塚治虫の近くにいればいいらしい。ファン冥利に尽きるというものだ。
 こうして、僕の虫プロ出版部員としての一日目が過ぎて行った。
 ところで、この思い出に手を染めるまで、この夜の手塚番の中には、当然『冒険王』の編集者もいたものと思っていた。自分では心当たりが無いが、自己紹介かなにかの時に、その編集者の危機感を募らせるようなことを言ってしまい、それで阿久津編集長にお出ましいただいて、お灸を据えられた。そう解釈していたのだ。
 しかし、そうではなかったのではないか。と、変な疑念が生じたのは、この原稿を書き始めて、あの晩、『冒険王』が待っていたのは、どんな漫画だったんだろう。と、全作品リストに当たった時だった。
 なんとこの時期、『冒険王』には、連載はおろか、読みきり漫画も何も描いてないようなのだ。(念のため、今日=2007.4.9=、国会図書館に行き、『冒険王』の昭和40年5月号を見てきた。隅から隅まで見ても、漫画はおろか読み物一つにも手塚の名前は無かった。つまり『冒険王』の編集者は、この夜、誰一人、手塚治虫の原稿など待っていなかったのだ)


 じゃ、なんのために阿久津氏が来たんだろう?
 虫プロ社員の手塚番としての心構えを僕に叩き込むため、手塚社長と、秋田書店出身の山崎邦保編集長が結託し、阿久津さんに頼んでやってもらった芝居だったんじゃないか?今頃になって、そんな疑念が湧いて来てしかたがない。だとしたら、阿久津さんもご苦労なことだ。なにしろこの25日という日は、月刊少年雑誌にとって最終〆切日であり、どの編集部も全活版ページを校了にするため、てんやわんやの最中のはずだ。手塚先生が描いていない『冒険王』だけは余裕があって、校了後の阿久津さんが、手塚先生のために一働きしたのだろうか?
 ついでに国会図書館で当時の『少年』(アトム)、『少年ブック』(ビッグX)を見たが、この時描いていたのはどれも別冊付録だったため、本誌しか読めない蔵書からは、見覚えのある原稿には出会えなかった。また『少年画報』はマグマ大使の新連載が始まった号で、4色カラーのゲラ刷りを興味深く見た記憶があるが、国会図書館の蔵書が欠品で、これにも出会えなかった。
 ともあれ、この夜を最初として、月によっては20日以上も手塚邸に泊まり込んでいる、虫プロの社内原稿、ファンクラブ雑誌『鉄腕アトムクラブ』の手塚番編集者が、ひとり誕生したわけである。(2007.4..9記)


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